其の③ 手と機械

匠という言葉が一人歩きしている。

元来、技術者の中でも特にすぐれている人、職人の中でもほとんどまねることのできないぐらいの技術を持った人のことを匠と呼んだはずである。

それと同時に、職人という言葉があいまいになってきている。私は、今の今まで職人とは、手仕事手技をもって、物を作っている人だと思っていた。ところが、先日テレビを見ていると伝統工芸の箱根細工をとりあげて、そのすばらしさを放送していたのだが、そこに登場する職人と呼ばれている人達は、唯あらかじめ刃物の角度の決まった木工機械に木材を通し、それを組み合わせているだけで、私にいわせれば多少の慣れ不慣れはあるだろうが、唯木工の機械を扱える人のことであり、決して職人とも匠とも呼べるものではなかった。今は機械でやっていることを昔の人は、すべてノコギリとカンナを使って作ったのである。だから職人であり、その中でも特にすぐれた人を匠と呼んだのである。

手仕事の七宝  暖かいぬくもり

機械の七宝  硬く、冷たい

機械を使うことを悪いと言っているのではない。手で作ったものと、機械で作ったものの違いはぬくもりである。
電子ミノで彫った彫刻と手で彫った彫刻、電動糸ノコミシンで切り取った木片と手ノコで切り取った木片の違い、自動カンナで削った一分の狂いない板と手カンナで削ったなんとなくぬくもりのある板、これら両者の違いは、何ともいえぬ暖かさを持った手仕事に比べ、無機質などこにも欠点のない冷たいものとの違いである。
すべてを手仕事で完成させた作品には、多少の目にみえぬくらいのゆがみやゆらぎがあり、二つと同じ物ができない持味がある。


絵画では、こういった作家独特の線や質感が一番大切なものであるにもかかわらず、木工芸においては現代人は手仕事によるぬくもりよりも、木工機械を利用する事により、確実に同じものができてくる製品を信用する時代になってしまったのではないだろうか。
製作行程の8割以上を木工機械を使用する事によって、できる品物は世界中、中国でもベトナムでもどこでもできる品物であり、クールでもJAPANでもないのである。

かといって、今さらながら手のぬくもり、ノミ跡の暖かさや彫ってない部分(空間)が生きているのは、一番のポイントであると声を大きくして訴えたところで、手ノミで彫った仏像と電子ノミで彫った仏像の違いを見分けることのできる人は数少ない。

日本人の彫った馬                           彫る時に逆目(さかめ)ができないよう に、順目で彫っているため長く使用していると、ノミのつやが出てくる。つつましい中に、キリッとしたけじめのある所が和の精神に通じる。

外国製の大黒天                            仕上がりが逆目が多く、ささくれだっているため最後にペーパーで仕上げている。その上にニスを塗って光沢を出している。

国の施策を見ると、さすがに伝統の技術がとだえることに関する危惧はあるらしく、しきりとその継承を唱えてはいるが、実際の現場では現実に売り上げの数字の伸びているものに対して、助成・援助をする方向であり、将来的に大きな可能性を秘めているのに現在は国内においてまったく需要のない分野は見向きもされていない。そういう本当に困っている分野にこそ外国人が驚嘆する様な技術があるのであり、本当に筋のいい職人で若くて無名の人達、昔からの日本の伝統を正統に受け継ぐ(継ごうとしている)人々は、今さら機械を使う気にもなれず途方に呉れている。

このまま3Dに取って替わられるようなら、それこそ「物作り日本」は終ったと判断せねばならない。

流通業界におけるコンビニやチェーン店と、地元商店街や個人商店の関係と同じといったら分かっていただけるだろうか。

名人 黒田辰秋 は言った、「どんなにいい腕を持った職人でも、どんなにいい材料を使ったとしても、デザインが悪ければそれは良い品とはいえない」と。

 

そもそも「美術なり工業なり、あらゆる文化は時代と共に歩むものであり、その時代を色濃く現すものである。国の勃興期や最盛期には必ず力強い涌き上がるような躍動感を伴った作品が出現することは歴史が物語っている。

今、時代を考えるなら、混迷の時代であり転換期である。人々の心も萎縮しデザインの世界もイジイジとして、伸びやかな線があまり見られなくなっているのは否めないが、こんな時代だからこそ未来の木工文化のために基礎を確実に受け継ぎ、伝えていくことが大切なのではないだろうか。

 

東京下町の職人さんが作った砲丸投げの鉄球が、外国製の機械で作った砲丸よりも世界の一流選手に愛されているという。その職人さんによれば、わずかに重心をズラしているのだという。これこそが手仕事であり、機械ではできない日本の技なのである。全国の、パソコンも使ったことのない真の職人さん達にエールを贈りたい。貴方達こそ、日本の宝なのだと・・。

 

最後に、日本の伝統を愛する皆様に昔の作品を楽しむことをおすすめしたい。少しでも早く仕上げてお金にしようとする現代よりも、いつ出来上がるかわからないくらいの、ゆとりと心をこめて作った昔の木工作品。

それは、いかにも手をかけて作ったかのように見せて、その実、ルーター・電子のみ・電動カンナ・パソコンと刃物を連動したNCや3Dで作った形だけの冷たい品物よりも、100年経った今でもぬくもりや、やさしさ、暖かい光の残っている昔の木工品。これが、クールジャパンの原点なのではないでしょうか。

 

興味のある方は、次ページのらんま美術館をご覧下さい。

其の④ 押す文化・引く文化

こ れは相撲のことではない。西洋はノコギリもカンナも押し出すのであり、日本はノコギリもカンナも手前へ引くのであ る。フェンシングは突き、日本刀は引き切る、ドアは押し出し、ふすまや障子は引きあける、この違いは日本の文化の緻密さの原点である。押すより引く方が、 はるかに精度の高い仕事ができる。その頂点といえるものが、日本人の生み出した立ちカンナと言われるカンナである。

これは、極度に堅い木や、木目が複雑な木を削る時、①だと刃が入らなかったり、逆目が起きたり、とても不可能な材料を、②だと、どの方向から削っても逆目の起きる複雑に入りくんだ木目の木でも見事に順目で削ることができる。

※ ここで順目と逆目について説明しておくと、木というものはどちらかの方向から削るとツヤのある順目に削れるが、反対方向から削るとガサガサした逆目になる。 誰しも自分の家の柱が、ガサガサでトゲが刺さるような家は嫌だろう。だから大工さんは、ツヤツヤの順目で柱を仕上げる。これは木にとって虫が入りにくくなる効果もあるし、何年も経つと自然にカンナの刃物の艶がでてくるので美しい。


話をもとに戻すと、この立ちカンナが生まれる以前は、日本でもヤリカンナとかサシノミといった道具を使っていた。外国では、いまでも小刀を木の面に対して直角に置いて削り節を作るように削っている。

今、 日本でこの立ちカンナを使うことのできる人が、激減している。何故、こんなことを言うかというと、立ちカンナを使用した場合の仕上がり面は、木の目がその まま生きているし、何もしなくても年代が経つと、刃物のツヤが出てくる。これに対し、立ちカンナを使えない現代人は、最後の仕上げをサンダーで仕上げる。 そうすると一見表面はツルツルになったように見えるが、これは木の目をつぶしてしまっていて、その木の目の間にペーパーの粉(石粉)がつまっているので、 同じくツヤツヤになっている様に見えても、手にさわると歴然とした差がある。

今 現在、日本の木工芸が直面して問われている問題がここにある。暖かみのある手のみの跡、立ちカンナの刃物の跡、これこそがクールジャパンの原点であるので あり、これが全く理解されなくなったり、評価されなくなった場合、もはや、3DやNCといった機械の時代が、大手を振って歩くのであり、やがて木工の世界 からクールジャパンという言葉は消えてゆくことになるのである。

日本人はどうやって和の心を伝えていけばよいのだろうか。今回はこの辺で・・・。

其の⑤ 木殺し

その明らかに江戸時代に作られたと思われる古いランマには、無数の“針でつついたような”穴があいていた。

最初は、虫の跡(ピンホール)だろうと思っていたのだが、それにしても白い粉が落ちてくるわけでもないし、
よ~く見るとゴマ粒の半分ぐらいの穴の中には、明らかに三角の形をしたものもある。その時私は、このランマはまるで生きているかのような一匹の鯉が透かし彫りしてあるすごく上手なランマ(※本ホームページ『ランマ美術館』の中の、8番目のランマ)ではあるが、材料が樅(もみ)の木なので、その安っぽさを消すために釘(くぎ)か錐(きり)で突いて、無数の穴をあけてあるのだと考えていた。

ここで樅(もみ)の木についてちょっと説明しておくと、この樅の木というのは、構造材にするには強度がなく、化粧材にするには、木肌が荒くて、しかも木目が単純で、あまり用途のない木である。だから、
誰も使用しない→伐採しない→大きな木が多いのであり、小説にもあるように「樅の木は残った」のである。

ところが最近、富山県氷見市で、100年以上経った自分の家を解体した人が、何か思い出の品を取っておこうと、よけておいた栃の板で、何か作れないかということで、その板を見に行った時のことである。その板の持ち主は「こんな、虫の穴だらけの板で、何か、間に合わせて使うことができるものですかね~」というので、よく見ると、私が以前、不思議に思っていた、樅の木のランマにあいた穴と一緒の穴である。


私はこの時、ひらめいた。これが「木殺し」という奴だと……。


昔の大工は、やがて曲がったり、ひよったり、ねじったりしてくると思われる木があると、その木の目を見ながら、曲がってきそうな所の表面に錐で無数の穴をつついて、その木の持つ“曲がろう”とする性質を押さえたのである。


昔、飛騨の大工に、木殺しという技術があったらしい、ということは聞いていたのだが、実際に見て、納得したのである。

其の⑥ 節と節のあいだ ~続・一本の杖の話~

長い間、木の仕事をしている人は、たぶん気付いていると思うのだが、木の枝が図①のように生えているとすると、その節と節の間隔が、大体90cm~1mなのである(因みに“節”とは、木の枝を切った跡のこと)。
だから昔の人は、このことに気付いていて、一本の杖を6尺という数字(単位)にしたのではないだろうか。それが証拠に、1尺と1フィートの長さは大体同じだし、1ヤードは3尺に近いし、1メートルは3.3尺なのである。
昔々に決められた単位なのに、東洋と西洋で似ているのは何故だろう。私には、その理由が“家”というものの役割に関係しているように思えてならない。

というのも、“家”とは、外敵から身を守り、雨露をしのぎ安眠するために建てるものであるとすると、一人の人間が住むには、最低限“寝転んで、手足を伸ばせる広さ”がいるのではないか。そして、家を建てるときに、
一番先に決めなければならないのは、最初の柱と次の柱の間隔である。この間隔が狭すぎると、家の強度は強くなるが、柱の本数がたくさん必要になるし、柱と柱の間隔が広すぎると、今度は家の強度が弱くなる。そこで、
強さと広さを考えて色々やっているうち、約180cmが最適ということになってきたのではないか。なぜなら、節から次の次の節までが、約180cmだし、この長さは人が持って運ぶのにも、なんとか持ち
上げて担ぐことのできる都合のいい長さだし、木自体のことを考えても、強度もあるし、節の少ないキレイな木がとれる。
 そして、この約180cmの長さの木を、6という数字で考えるようにすると、建築作業にも便利である(※③「一本の杖の話」を参照ください)。だから、一本の杖を1尺という単位にせずに、6尺という単位にしたのではないか。
そうすると必然的に1尺は30cmになる。1尺と1フィート、3.3尺と1mが、それぞれよく似た長さになってくるのも、このような理由があるのではないか。


※ここからは余談
 ちなみに、富山県は銘木と呼ばれるような木はあまりない県なのだが、立山連峰の中腹あたりに生える立山杉の大木(たいぼく)は、昔から銘木として珍重されてきた。現在は伐採禁止であるが、昔々にその木を切った
跡が残っている。その切った跡は、図②のように残っている。これは、山奥にあって運び出すことが出来ないために、丁度、杉の木の“腹の部分”を畳一枚程の大きさに切り取って、背中に背負って麓まで運んだ跡である。※図③
江戸時代より、これを立山杉の前腹杢(まえばらもく)といって珍重し、上級武士の家の天井板にしたそうである。このことからもまた、やはり、6尺という長さが、人間が運ぶのに都合のいい長さと重さということだと思えてならない。

其の⑦ 似て非なるもの

玄関や応接間の壁に、インテリアとして掛けてある絵画や書や写真の中に、海外旅行の土産で買ったと思われるパピルスの絵をみることがある。

 

こ のパピルスの絵が、現代の文化を象徴しているのではないか。昭和30年ぐらいまでは、現地エジプト人が古代エジプトのパピルスを模倣して、お土産として 作っていたのがだ、昭和40年代頃には、アフリカ大陸に大幅に進出したインド商人が、そのパピルスの土産を持ち帰り、安価な類似品を作ってエジプトに卸し はじめた。

 

ただこの頃は、エジプト人の作った本物のパピルスを見て模倣したものだからまだよかったのだが、昭和60年代頃になって、中国商人が大挙アフリカに進出し、今度はその〝インド商人が作ったパピルス″の土産を模倣して〝中国製のパピルス″を作り、逆にエジプトに卸すようになった。

 

結果、今日日本の家庭の壁に掛けてあるパピルスは、そもそもパピルスに似せた紙の上に、モノサシで引いたような硬い線や、古代エジプト人の服は着ているが、冷たい無表情な人物や動物がシルク印刷され、〝元々のエジプトのパピルス″とは似ても似つかぬ異文化のパピルスになってしまったのではないか。そこには、熱砂の砂漠や、突き抜けるような青い空を想像させるようなエジプトの香りのようなものは、あまり感じられないように思えてならない。

 

また、先日、日本のデパートの催事でも、南米アンデス地方の先住民インディオの作ったという壺が売られていたが、私の目には、素焼きの小さな壺に描かれた三角その他の文様が、よく言えば緻密だが、まるで定規をあてて描いたかのように″映り、アルパカのマントを着たインディオや、マチュピチュの遺跡を思わせる、おおらかさや安らぎについては、あまり感じることができなかった。

 

けれどももし、いま本物のパピルスとお土産が横に並んでいたら、高い金額を払っても、本物のパピルスを買う人はどのくらいいるのだろうか。シルク印刷のパピルスでも、安くてなんとなくエジプトの雰囲気を味わえれば、それでいいという人の方が多いのだろうか。

 

こ のようなことは日本製品についても多くあてはまるように思う。日本製品と外国製品に明確な違いがあったとしても、買う側にその見分けがつかないか、ついた としても、そこまで本物を求める必要がないというのであれば、安いほうがいいに決まっている。だが、安くてなんとなく雰囲気を味わえればよい、というので あれば、職人の存在意義はないことになってしまう。物を見る目を養うには、どうすればいいのだろうか?

 

 

次回は、築城から学ぶ、物を見る目

其の⑧ 御隠居さんが離れを建てた。

頃は江戸の中頃、町内のご隠居さんが、離れを建てることにした。家を建てると言う多少なりとも人生における一大行事に対するこの時のご隠居さんのやり方が、現代人にも非常に参考になるのではないかと思い注目してみたいと思う。

 

先ず、ご隠居は自分の土地のどの部分にどのくらいの大きさでどのような間取りで、どんな雰囲気の離れを建てたいかをイメージする。

 次にご隠居は、誰に任せるかどの大工に頼むかを考える。ここからが一番のポイントである。

ご隠居の町内もしくは隣町及び近在の村には 3人の大工がいる。この歳になるまでこの3人の大工の仕事は、取り立てて注意して見てきた訳ではないがそれとなく見てきているつもりだ。

なかでも隣町の大工常吉は、年の頃なら四十半ばの腕のいい職人でこのあたりでも少しは評判の浮いた所のないしっかり者の大工である。

その常吉の弟子に、先頃長年の奉公を終え一人立ちを許された三十過ぎの松造という男がいる。

寡黙な男だが兄弟弟子達との仲も良く親方が忙しいと、独立したにもかかわらず直ぐに手伝いに行っている義理堅い男である。ご隠居はこの松造に離れを建てるのを任そうと思った。

ご隠居の意向を受けた松造は、早速これから建てようとする場所の地勢を見 家相やこの地の気象条件などを考えながら家の向きや間取りを決め、屋根の勾配は、あまり下品ならないよう多少緩めにし、一枚の図面(といっても一枚の杉の板に) を書き上げてきた。そして柱は木曽の檜の3寸角を用い 横物の棟木は太さ一尺五寸(45センチ)のひめこ松を使いたいと言い、建具は秋田の杉、座敷の天井板はおとなしい奈良は吉野の杉の中杢を玄関の天井は少し豪華に薩摩の杉を床柱には京都の北山の磨き丸太を使おうと思うのだが、どうだろうか? と言う。

ご隠居は、黙って聞いていたが細かい所はさておき大筋は了解し、土台は栗の木にして欲しいことと、床の間の横に書院を作って欲しいと言ってようよう仕事に取りかかるよう松造に伝えた。

 そしてこれを受けて数日後、松造は八卦を立てて建前の日はこの秋の長月の大安の20日当たりがどうだろうかと言う事で、いよいよ仕事が動きはじめたのである。

 この日以来松造は、屋根屋や壁職人などと段取りの打ち合わせをしつつ、深川は木場にある材木屋に通い、自分の気に入った良く乾燥した性のいい目の通った木を探して歩く日を送っていたが、一週間した頃大八車を引いて、ご隠居さんの所へやって来た。どうしたのかと尋ねると今から大井川の方へ行って来ると言う。それは、今回の離れにふさわしい安定した手頃な礎石(基礎になる石)を探しに行くのだと言う。ご隠居は頼もしげに松造を見送ったのであった。 

 数日して大井川から戻った松造は、早速敷地に水盛り糸を張り、柱を建てる位置を決めると鳶職人を呼んで、栗割り石を打たせ大井川から持ち帰った基礎石を据える場所を踏み固めさせたのであった。

 基礎石の位置も定まり松造はヒカリ付けに取り掛かるのであった。ヒカリ付けとは、大井川で探してきた土台にする石の凹凸にあわせてその上に建てる柱の接地面を凹凸に加工する作業のことで、この時、石に石灰を塗ったり墨をぬったりしてその上に柱を建ててみて墨の付いた所を少しヅツ削っていって石の形状に合わせて行く作業のことである。

このようにして、建前の準備は進んでいくのであった。

 長月二十日、日本晴れの大安吉日 親戚や近所の人達が集まり賑々しくも厳かに建前が行われた。

この日は松造の親方常吉をはじめ兄弟弟子の利助や伊三郎達も駆けつけ、あたかも松造の人柄を思わせるようで、ご隠居さんも上機嫌なのであった。

その後、屋根屋が来て柿葺き(こけらぶき)をして、次に貫板をはり根太を打ち 壁屋が来て小舞かき(竹を編んで壁の下地を作る)をしてその間に松造が、敷居を張り鴨居を付け、床を張り床の間を作り、壁屋は粗壁(あらかべ)を塗り 乾いた頃に中壁を塗り、その後松造が天井を貼るという順に進んで行くのだった。

皆さんお気付きだろうか、家造りとはあくまで人間を見定める事なのである。

類は友を呼ぶと言うが、真面目な人の回りには真面目な人が集まり、要領のいい人の回りには要領のいい人が集まり、遊び好きの人の回りには遊び好きが、

けちな人の周りにはけちな人が集まることが多い。

 

以上 忙しい現代人には、到底不可能となってしまったのだが、私は今度家を建てる機会があったらこんな風に建てたいと思っている。

今からほんの百年いや八十年位前まで、こんな世界が当たり前の世の中があったのだ。それが大量生産、大量消費という時代の流れに飲み込まれ今や日用雑貨のみならず、耐久消費材と呼ばれる一生に一度位しか建てることのない住宅までが、より効率よくより大量に作ることに意義を求め (本当はより安くなるはずなのだが、決して安くない) 終には、住宅までが使い捨ての時代になってしまった。人の作る物や手仕事に心があった時代 それが、消え去ろうとしている。

それはすべての物が使い捨てになると同時に。人や人の心が使い捨てになる時代なのだ。